御伽噺を語る石
---------------------------------------------------------------------------------
外海に対して大きく湾を形成しているこの地方には、そのせいもあって月と海に関する昔話が多く語られている。地理的には背後に山々を置くものの、それよりもずっと海が近く漁師の多いこの地域で、海と、そして潮と航海に関係する月が話に盛り込まれること事態は特別なことではない。
不思議なのはどの話にも海から、または月からやってきたという異人が語られている部分だ。海流の関係で、確かに領内の海岸線には沿岸で難破した船の残骸や、乗組員らしき人間の死体が流れ着くことが間々ある。それは遠い国の、髪や肌の色の違う人である場合もあるから、そんな人々を海の底や月の上の住人に置き換えて語ってきたのだろうと祖父は語った。
昔話の異人は、必ず一人でこの土地に降り立つ。難破した船や、一緒に海を渡ってきたはずの仲間が話の中から消えているのは、より話の神秘性を増すため意図的にしたことだろうか。つまり、この土地の人間は異国から船を操り、大陸を渡る過程で志半ばに海の藻屑と散った名前も知らぬ人々をこの地に葬り、彼らのために死後の世界を用意した。海の底や、船の上で彼らが見上げたであろう月を舞台に、より神秘的な一人の異人を象って。それがこの土地の者達なりの、死者に対する鎮魂だったのかもしれない。
だが浜へ流れ着くのは死体ばかりというわけではなく、実際にまるで御伽噺の中の異人のようにして浜辺に打ち上げられて倒れているところを助けられ、そのままこの土地に住み着いた人がいる。それがイラファの乳兄弟であるデュールの母親。この土地で領主の一人息子に見初められて、彼との間に息子を二人産んで亡くなった女性だった。
イラファの記憶の中で、その女性は確かに御伽噺の中に出てくる妖精のような美しさを持った人だった。艶やかな長い黒髪と、この土地の者としては白すぎる肌。深い青の瞳は例えるなら空よりも海で、陽の光よりも月明かりに映えた。実際、彼女の瞳は色素が薄すぎて、夏の強い日の光になどは耐えられず、外に出るときには必ず目元を日除けのレースで覆っていた。
イラファは確かに領主息子であるデュールとは乳兄弟の気安さもあって、まるで本当の兄弟のような遠慮のない関係を築いていたが、その母親である女主人とはやはり距離を置いて接していた。彼女はただイラファの女主人であるという以上に、近寄りがたい雰囲気をまとっていたと思う。
薄いレースの覆いは美しい青の瞳を隠し、そして白い肌と一体化する。細い肢体はまるで彫像のように整っていて、少し、ほんの少しだけ怖かった。大らかなで生気にあふれた自分の母が太陽ならば、領主夫人はまるで月のよう。
まるで海に浮かぶ月影の魔物のよう――。
「サリ! イラファを起こしてくれ。それからトス先生を俺の部屋に!」
廊下を走る足音と共に、幼馴染であり自分の主でもあるデュールの声が聞こえて、イラファは突っ伏していた机から顔を上げた。呼びかけている相手はイラファの母親で、デュールにとっては乳母でもあるサリのようだった。
正直この年になってまで母親に呼び起こされたいとは思わない。イラファは半覚醒の状態で眼鏡を掴むと、ベッドから転げ落ちるように出て、寝乱れた格好のまま廊下に飛び出した。
「デュール、何事だ? こんな朝早くに」
寝乱れているわりに、服は寝巻きではなく昨日と同じもの。それを見たデュールの目が眇められ、イラファは頭を掻いた。
「もう日は昇っているぞ、イラファ」
というよりも昨夜きちんと寝なかったことがばれているのだろう、とイラファは肩を竦めた。またつい、都から取り寄せた書物に夢中になってしまい、明け方まで起きていたのだ。
「お前と違って、俺にとっては日が昇りきるまで夜なんだ」
言い訳を口にするとそれを聞きとがめた母親に背中叩かれた。同年代の男と比べても大きく育ったイラファに対して、サリは小柄な女性だった。またお前は、といういつもの説教に入りそうだったサリから慌てて視線をそらすと、途端にイラファは別の意味で慌てた声を出した。
「……って、何をしている? デュール!」
イラファは思わずデュールの手を掴んで止めた。デュールの手はベッドに横たえた人間の、着ている服の合わせに伸びていて、今にも服を剥ぎ取ろうという意思を持って動いていたからだ。
「見て分かるだろう。服を脱がせている。濡れたままでは体温を下げるだけだ」
それは分かる、とイラファは思った。デュールの言っていることは最もで、ベッドの上でぐったりとしている人――一応そう見える――の顔色は青く、すでに体温は十分に下がっているようだった。濡れた服はすぐに脱がせて、なるべく暖をとってやるべきだろう。だがイラファは、まさに適切な処置を行おうとしているデュールの手を離さなかった。
「まぁ! 若様、いくら相手に意識がないからといってそんなこと! 私がやりますわ! 若様はご自分の服をお着替え下さい!」
何故イラファに止められるのか分からないでいたデュールは、頬を赤くしたサリの叫びでようやく状況を悟ったらしい。
「…………サリ、誤解だ。俺だって相手が女性なら、いくら緊急事態でも少しは戸惑う」
後半の言葉は手を掴んで離さないでいるイラファに向けたものである。イラファはそれでもデュールの手を掴んだまま、ベッドに横たわっている人の胸元を見た。なだらかだが豊満さのない胸は浅く上下しており、濡れて張り付いた衣服の上からだとその平らさが目立つ。そこまで確認してようやく、イラファはデュールの手を離した。
「あ、本当だ。いくら扁平胸でも限度があるな」
顔だけを見れば女性と間違えてもおかしくない容姿をしていたが、さすがにここまで抱いてきたデュールには相手が男であることが分かっていたのだろう。だから戸惑いなく衣服に手を伸ばしたわけだ。それがわかれば何も焦ることはなかった。
「あぁ、驚いた。そんなずぶ濡れの格好をして、まだ寝ぼけているのかと心配したぞ」
イラファの軽口はいつものことと流されて、デュールは厳しい顔のままサリに呼びかけた。
「サリ、着替えの服を持ってきてくれ。俺の分も頼む」
「はい、すぐに!」
部屋を飛び出して行ったサリを見送るデュールからは強い潮の香りがした。いつも朝の散歩から帰ってくると、その体からは潮の香りがするものだが、今日は胸元まで海水に濡れているせいで余計に強い。それがなんだか、わけもなくイラファを不安にさせた。
「……デュール、捜索には俺が行こう。お前はここにいろ」
「いや、着替えたら俺も行く。ライソルに頼んだままにはしておけない」
そう言うわりにデュールは、ここを離れたくなさそうな顔をしている。それはそれでイラファに不安を覚えさせる要因となったが、微妙な夢のせいでデュールを海に近づけたくないという思いのほうが勝った。
「だから、俺が代わりに行って指揮をとればいいのだろう? 夜のうちに救援信号も上がらなかった。大きな船が難破したとは思えない。俺が行けば十分だ」
デュールはなおも何か言おうとしたようだったが、廊下を走る人の気配に口を閉じた。
「若様! どこかお怪我でも……」
慌てた様子で部屋に入ってきたのはイラファの祖父であり、デュールら領主一家の主治医を務めているトスだった。
「トス先生、診て欲しいのは俺ではありません。漂流者を見つけました。水は吐かせましたが、意識が戻らないようです」
とにかく大切な次期領主の体には何もないことを確かめてから、トスはちらりとイラファを見やり、イラファがそれを察して頷くとようやくベッドに横たわっている漂流者へと近づいた。
「爺様に任せておけば、俺はとりあえずこの場に必要ないだろう。お前に風邪を引かせるようなことをすればお袋が煩い。濡れた服をすぐに着替えて、後は拾ったものの面倒をしっかり見ていろ」
「イラファ」
その時乳兄弟の瞳に宿った感情は何だったのだろう。イラファは珍しく図りかねたのだが、この場で問いただすことをしなかった。
「後でじっくり話を聞かせてもらうさ」
それで大丈夫だと思っていたのだ。実際、そこで問いただしていたとしても、その後の事体はそう大きく変化しなかっただろう。
「……分かった。お前に任せる」
「行ってくる」
そう言って本当に出かけることができるのだから、着替えもせず眠り込んでしまったかいがあったというものだろうか。イラファは寝癖のついた髪そのままで、すでに港で準備を終えているだろう漁師達に指示を出すため海へと向かった。
小一時間かけて海の捜索から領主屋敷へ戻ってくると、イラファはすぐに母親に捕まった。他には誰も漂流者など見つからなかったことを伝えると、母親は安心したと表現するには微妙な表情をして見せた。
「何か気になることが?」
その表情を捉えたイラファが尋ねると、サリは戸惑いがちに手にしていた布を広げて息子へ見せた。
「……若様には誰にも見せないように言われたのだけれど、お前、この服に見覚えはない?」
広げられると、それがあの漂流者の服であることがイラファには分かった。デュールが遠慮なく手をかけた服の胸元が特徴的だったからだ。この土地の者が着るような上着とズボンの組み合わせではなく、一枚の布を羽織って体の前で重ね合わせ、腰を縛る形の服だ。当然胸元は布が交差している。その目立つ胸元には淡い色の刺繍文様が。花文様に見えなくもないが、それとは違う幾何学模様でイラファの記憶を擽る懐かしさがあった。
「……あぁ、さっきはそれどころじゃあなくて気づかなかったけれど、これは……奥様の……」
言いかけたところでサリの瞳が鋭く光った。
「お前もそう思う?」
必要以上に強い反応を返した母親に、イラファは戸惑う。
「お袋の方が奥様のあの服をよく見ているだろう? 俺はデュールと一緒に見せてもらったことが一二度あるだけだからな……。でも、同じに見える。同じ土地の様式なのだろうと思うな」
「初めてよ。奥様以外に、こんな服を着て海に現れた人間はいなかった」
母はだいぶ興奮しているようだ、とイラファは思った。初めての可能性。確かにそれに食いつきたくなる気持ちは分からないでもないが。
「落ち着けよ、お袋。ただ衣服が似ているってだけだ。髪の色はまったく違うし、瞳だって起きてみなければ分からない。俺達には全然分からない言葉を使うかもしれない」
「分かっているわ。決め付けるのは早計だってことは。私は大丈夫。でも……」
決め付けるなと自分に言い聞かせるかのようにそう言ったサリの視線は、心配そうな光を宿して漂流者を寝かせている部屋へと向く。デュールはきっと“拾ったものの面倒を見る”ために、その部屋から離れてはいないだろう。
「デュールも大丈夫だよ。とりあえず今はその服をきちんと隠しておく方がいい」
サリはそれでも更に何か言いたげな顔をして背の高い息子を見上げたが、イラファがなだめるように頷くと、大きく息を吐いて頷き返した。
気がかりな服を持ったサリが去っていく背中を見えなくなるまで追ってから、イラファは一呼吸おいた後に部屋の扉をノックした。しばらく待つが、中から返事はない。イラファはかまわず扉を開けて中に入った。
部屋の中は薄いカーテンが引かれていて、そのままでは眩しい朝日を和らげていた。だが柔らかな朝日というのは月明かりに似ている。ベッドから覗く漂流者の髪はその月明かりのような朝日によく映えていた。
奥様とは違うが。
それでも不思議と似通った空気を感じてしまうのは、あの服を見た先入観からだろうか。
「……どうだった?」
ベッド脇に椅子を置いて座り、らしくない遠い目をしてデュールが尋ねてきた。イラファは極力そっけない調子でそれに答える。
「何も見つからなかったよ。沈没した船の欠片も、人の頭もなにも」
イラファの答えに、デュールは眠っている様子の漂流者から目を上げて、この部屋に入ってきてから初めてイラファの顔をまともに見やった。
「……そうか……」
無表情だが、心中穏やかではない目をしているな、とイラファは乳兄弟の様子を捉えた。元々弟のリュシオと違って表情が豊かな方ではないが、変化の度合いが少ないだけで、感情を隠すということはしないので分かりやすい。
「何を考えている?」
「…………何も」
嘘だ。兄弟のように育ったイラファには分かる嘘だし、デュールはイラファが嘘だと見抜くことを意識して答えている。
「そうか? まぁ、どうしてひとり漂流する羽目になったのかは、本人に問いただすのが一番手っ取り早い。夜には意識も回復するだろう。遅くなったが朝食にしないか? リュシオも待っているだろうから」
弟の名前に反応して、デュールはぼんやりと椅子から立ち上がった。なお、視線は青白い顔の漂流者から離れない。
「イラファ」
「何だ?」
「お前は、結局俺の母はどこから流れ着いたのだと思う」
デュールの質問に、イラファは気づかれないように小さく息を呑んだ。奥方が亡くなってから十年以上経っている。彼女が存命中も、そして死後もデュールはその問いを一度だって口にしたことはなかったのだ。いや、デュールだけではない。奥方を知る誰もが疑問に思っていて、それでいて誰もその問いを口にすることはなかった。イラファだって、ずっと考えてきて心の中に纏め上げたこの土地の御伽噺の真相を、妥当な結論だと思いつつも誰かに披露することはなかったのだ。
「……そうだな、奥様には大変失礼なことだろうが、俺はあの方はここからそう遠くない場所で身投げをしたんだと思っている。けれど死ねずに、浜に流れ着いた。それなら沈没した船や、他の漂流者は必要ないからな」
この説はサリのように奥方を無条件に崇拝しているような人間には受け入れられないものだろう。勿論、肉親であるデュールにとっても面白くない内容だったはずだ。けれどイラファが指摘した現実的な説を聞いて、デュールは静かに頷いたのだ。
「……そうだな、そうかもしれない」
それは彼もまた、あらゆる可能性を考えて、考えつくした結果として残った結論のいくつかに、イラファの言ったものと同じ結論が含まれていたからこその納得だったのかもしれない。デュールの答えを聞いて、イラファは正直ほっとした。将来この土地の領主となるデュールが、無闇に自分の母親を神秘化するような、そんな結論に飛びつかなかったことを。
「海からやってきたという話も、あの方を見ていればもしかしたら……という気にはなったがな。だが、御伽噺だよ、デュール。月長石にそんな力はない」
二人で試してみただろう? と笑ってイラファは続けた。昔、まだリュシオが生まれていなかった頃のことだ。商人から買った小さな月長石を月明かりの下に置いて、それを口に含みながら海に潜ったことがある。たが当然のことながら息は続かなかったし、浮力以上に体が軽くなるということもなかった。
その後デュールが奥方からもっと長い時間月の光が必要だ、と諭されたことは知っているが、それは結局のところ海で息をすることなど無理だということを優しく言い聞かせるための方便だったはずだ。
「あぁ、そうだな。お前の言う通りだ」
デュールは何もかもに納得したような顔をして、微かに笑った。しかしイラファは知らなかった。この時ベッドに横たわる異人を見つめつつ、デュールが手にしていた小さな石の存在を。
「ただの御伽噺だ」
そう、それは月長石が語る御伽噺の始まりだった。